資本主義的経営
そんなによいものだろうか
よく経営についての考え方とか、経営者が語っているのが聞こえてきます。
それはとても重要で、価値のあるもののようです。
得意(特異?)なものがあるのは良いことだし、経営資質というのは立派な特技でしょう*1。しかしそれはある方面の能力であって、人間として、社会人として、会社人として、究極の能力とは到底思えません。
しかし彼らにしてみれば、そうではないのです。
それこそが重要であり、それをもって特権的であり、最終的に目指すべきもの、万能な完璧な終着点なのです。
それは資本主義であるから
彼らは妄想家ではありません。*2
それは現実的スーパーテクニック*3なのです。
現実的というのは、現在の資本主義社会そのものを指します。資本主義においては、指揮命令系統をもった縦の構造でもって人員を管理することを基本とします。縦の命令系統であれば、当然上位程価値があり、実作業を行う人よりも、より多くの人間に指示するもの、つまり実作業を行わないもの、の方に重みがおかれます。だからどの会社でも認められると、仕事ができると、年齢を重ねると、管理する人間になっていくのです。
でもなぜ、縦にこだわるのでしょうか?
共同で作業を行う場合に、命令者、指揮者*4のみが重要であって、作業員の価値は、働きは、能力は、頑張りは意味のないものなのでしょうか?世の中はそのような職種、仕事ばかりである筈はありません。とりあえず昔からそうなっているからそれが正しいものだと、みんなが何となく思っているだけ、あるいは誰かに認識を植え付けられているだけです。冷静に考えてください。全てがそうだと正当化する合理的理由より、否定した場合のあらゆる可能性のほうが見つかるはずです。
「持つもの」の論理によりスポイルされる可能性
それは封建時代の流れをくみ、一部の「持つ人」が「持たざる人」より有利になるためです。
現資本主義においては、民主主義がラッパーされていることからも分かるように、誰にも「持つ人」となるチャンスを与えており、それをもって「平等」であり「過去の非人道的な封建社会とは一線を画す」とされています。
ここで重要なのは、あくまで価値があるのは「持つ人」であって、その「持つ人」への転身を妨げない、拒否しないという態度であることです。
価値の平等(立場の再評価)ではなく、あくまで立場の優越を残したまま、「じゃあお前も持ってもいいよ、もてるものなら」と譲歩したに過ぎません。社会的共同作業(つまり会社や公務員の活動のこと)における各立場の重要性を再評価することはせずに、封建時代のルールが引き続き適用されているのです。
しかし現実は、教育は個人の素質や能力の差に比較して、十分に平等であると考えられます。基礎能力は平均化し、資質を活かして能力を得ている人間が増えています。そしてその能力を活かして、価値のある仕事をしています*5。機械にできることは機械にさせるような工夫、進歩については説明は不要でしょう。
みんなが重要な仕事をしているのです。しかし一部の人間の既得権益のために、正当な待遇が与えられていないのです。歪んだルールです。「歪もうがルールは同じ」という考えもありますが、無益な競争と、縦構造から脱却した際の可能性*6を考えると、どうも参戦する気にはなれないのです。
次回は資本主義と拡大路線の予定
*1:彼らににその資質があるのかは客観的評価ができないため未知数としておきます
*2:むしろ私の方にその気があると思います
*3:この表現には私一流の意味があります。ずる賢く、とりあえず悪ではないがそれでいいのか?という微妙な線です。車をぶつけれ、ちょっと不要な入院をしてみたりするのはスーパーテクニックです。それで金儲けしたり生活してしまうのを悪とすると、なんとか許されそうな悪の一歩手前です
*4:音楽における指揮者というのは、演奏時に棒を振るのはさておき、ある曲をどのように表現するか創造し、演奏者に指示し、実際の演奏をチェックする、その中心にいます。これは会社においては企画、立案、監督、検査の仕事です。「表現の創造」があの地位の所以であり、命令するためではありません。そして会社においては(産業の高度化のため)これらは分業化され指揮する人間の役割は比較して非常に低いと考えます。
*5:同じ立場にあって能力の差がある場合、当然能力のある方が権限が、責任が、評価があるでしょう。ここでの問題は、立場の違いが正当に評価されていない、とするものです。
*6:一言でアソシエート。
(続)IT産業における「資本」とは何か?
資本とは
いちおうの答えとして、IT産業における資本とは、サービス業として特異な要素はなく、単に出資のことだとしておきます。なぜなら、マルクス時代の資本家もお金だけでは商売はできなかっただろうし、その他の諸々の要件は当然必要である、と考えるためです。
「その他の諸々の要件」にこそ価値があり、だから搾取する権利があるのだという主張も聞こえます。その通りにも思えますが、持つものと持たざるものを明確に区別するという発想そのものが資本主義的であり、封建社会と基本を同じにする思想であると考えます。
その考えはそれとして、しかしそれのみでは社会全体の利益が達成できないというところに新しい社会体制の必要性があるのであって、現状を肯定する要素をかき集めた反論は、進歩の意思が欠けているといわざるを得ません。
そうです、今の私がそうであるように、現状でも生きていくことは可能なのです。
ですからここで肝に銘じるべきことは、現状維持の思想ではなく、次世代を見据えたものでなければなりません。私が退職するころに入社した新人が賞賛してくれるようなものを目指すべきだと思います。
成功のためには
話を戻しまして、何が必要かを考えてみます。しかし、これは夏に考えたことがそのまま当てはまるように思えます。成長、拡大を価値とする理念ではなく、質の向上、存続に重きを起きます。継続は力なりというのでしょうか?
そういう意味では不安はありません。日々精進であり、毎日の実作業そのものが会社の宣伝であり営業であるためです。
しかし、継続して作業をとる、仕事をとるということの困難さは知っているつもりです。それでもいえるのは、これは常につきまとう問題であり、始める前に熟考するものではないということです。
やはり始めるべきだったと思います!!
IT産業における「資本」とは何か?
結局、資本がないから労働者であるわけで、資本を手に入れるという近道があります。
資本家>経営者>従業員 の図式において、全てを一体化し一箇所に持たせたいというのが、僕の望んだものといえます。
資本家 vs 経営者&従業員でも当面はよいのですが、外観上はよいのですが、しかし、資本をも併せ持つことは重要な意味を持ちます。
現社会において、会社は資本家としての立ち振る舞いが重要であり、それがしっかりしないと会社としての存続が困難である、という現実があります。
さらに、従業員が資本家としてのメリットをも考えるという態度を要求したいのです。資本家のメリットは従業員にほんのわずかのメリットをもたらします。実は方向性は一致しており、その両面が自分自身であれば迷いはありません。より強固な共同体が構築されると考えます。そしてこの強固さこそが、現社会において存続するに必要なのだと考えています。
そこで我々はいかにして資本を手に入れるのか?そもそもその資本とは何か?を考える必要があります。
資本とは、株?出資のことであることは間違いありません。それはまず必要で、そのために見送りを決定したのです。しかしそれ以外にも、資本家を資本家たらしめる何かがあるように思えます。
これらを獲得することが、成功には必要です。
- 人脈。これは大きな資本です。金があっても流通経路がなければ商売は始められません。この重要性、及び質は情報化が進むにつれ変化しているように見えますが、そうは考えません。確かに新たなルートが現われていることは認めますが、質、その重要性については何ら変化がないものと考えます。残念ながらこれは横のつながりではなく、上へのぶら下がりです。孫社長がそうであるように、オヤジキラーである必要があります。
- 経験。これは違うでしょう。資本ではなく、経営的資質にかかわるものと思います。
- 情報。当然です。しかし労働者の必要とする情報と、資本家のそれは異なります。これは「人脈」によって追従されるもののように思えます。(つまり同義とみなしてよいのではないかと)
資本論をいかに適用できるか
マルクス主義について勉強中です。非常に勉強になります。「どうしてこういうことを学校では教えないのか?」「学校で教えないということが、共産主義の力を証明しているといえないか?」などど考えています。
僕がマルクスを読むのは、そもそも目的がありました。知恵が必要なのです。ですからいまの僕の立場で、どう考えるべきかが重要なのですが、まだそこまで至っていません。
なので以下メモとして記しておきます。
- 第三次産業をどう沿えるか?あくまでも産業であり、第一、第二と同様に考えられるようにおもえるが、それは正しいか?
- IT産業における「資本」とは何か?何を持つものが「資本家」といえるのか?当然、株式会社であれば株は重要な要素であるが、もっと決定的に何かがブルジョワたらしめているはず。IT業界に限定してそれは何か?
- 共産主義的な会社とはどのようにあるべきか?
- 他社との競争の中で生き抜き、市場の需要を維持し続けるために必要なものは、資本主義的発想と異なるのか?共産主義的会社といえども、資本主義社会において存在する(し得る)ため、何ら相違はないのか?あるのか?
- 先の競争及び市場需要維持の観点から、社員を意思統一し活性化させるその考え方とは?
- 資本家による搾取と会社経費との境界線を明確にする必要がある。線引きによっては現会社と同じになってしまうのではないか?
- 現社会において成功しなければならない。成功する(=会社を存在させ社員の生活を保障し、しいては社員を幸せにする)ための条件とは?
- 現会社を共産主義的思想をもって改革することは可能か?労働組合は有効か?
でも正直なところ、職人としてはもっと技術的な勉強がしたいです。。。
勉強だ
もっと勉強が必要です。
くじけた感からどうしてもやりきれず、生きているのがつらいので、なんとなく本を読んでみました。
どうやら私の考えるのは共産主義というものに近い感じです。
どうしてマルクスなのかといえば、青木雄二の勧めです。
これさえあればよいというものですから。
ポイント
- 技能に応じて働き、必要に応じて受け取る
- コンビネートでなくアソシエート(指揮命令系統をもった縦社会を構築せず、職人達が横に繋がって物事を達成する社会)
必要に応じて受け取る
私の考えを当てはめると、最低保証が重要だという考えは、「必要に応じて受け取る」ということになります。
子供をもつ家庭では、子供を育てる必要があります。単身者は必要としないお金を必要とします。扶養手当は全く正当性のある制度です。特に会社の社会貢献を考えた場合、まず社員の幸せが社会貢献の第一歩になります。ちいさな会社は貢献度も小さなものです。しかしその規模に見合った社会貢献が必要なのです。
技能に応じて働く
技能に応じて働きというのは、出来るだけのことをやるということです。各個人は当然能力の差がありますが、これを大きな問題としないのです。それをもって給与が決定されたり役職につけるといった判断基準を、現在の会社の価値観を否定しています。
なにをもって仕事を頑張るのか
仕事を頑張るのはより多くのお金のためでしょうか?頑張りがお金になるから頑張るのでしょうか?生活のために働くという大前提は覆らないのですが、さらにもっと頑張る理由はどこにあるのでしょうか。
私は、それはやりがいにあると考えています。
仕事は人生の大きな時間と労力を使います。それは生活のためだけに奪われるには大きすぎるものです。現代社会のバランスは、生活のためにすることが生活を圧迫するような状態にあります。この状態を抜本的に解決するには仕事を減らす必要があり、結果生活水準の引き下げを要求し、人間の本質に一致しません。
だからここで、仕事の中に、生活のためだけでない価値観を求めたいのです。
仕事の中に自分の役割があり、それを達成することで誰かに感謝される、というやりがいです。仕事を覚えていくことで、自分自身が成長していくことを感じ取ることもあります。
理解するには時間が掛かります。自分の働きがある程度の効力を持たなければ実感しにくいものです。
しかし、その感覚は確かに存在します。やったことが喜ばれさらにやる気にになるという幸福なループを形成します。向上心はお金以外からも生まれてくるものです。売り上げ、会社の利益、個人の収入、そういった価値以外のところでも人は仕事を頑張れるし、幸せになれるのです。
アソシエート
そこで重要なのがアソシエートです。
縦社会の上層部のためにでなく。顧客のために。会社のために。自分のために、誰かのために。
そういった考えをもって現在の日本において企業を営むことは、十分に可能というか、むしろたやすいことだと思います。価値観を共有する人々が集まって日々の努力を重ねれば、会社を成立させ社員の生活を守ることは十分に可能です。幸い私の考えるIT業界は、物的金銭的資産の影響が少ない業界です。
そういった方向性を多分3年くらい前から考えていたように思います。
もっと明確なものにする必要があります。
誰かに説明し納得してもらえるものに練り上げていく必要があります。